ザマアミロ
半年前、病名を知った直後、自分に降りかかっているあらゆる未知をとにかく理解しようとした。全部受け入れてから前に進もうと思った。
予後・治療・生存率。調べ、読み込んだ。
「生」と「死」について考えた。 考えて、考えて、考えて…
病棟は命と戦う現場だ。
入院して真っ先に挨拶してくれた、車椅子の彼。11月末頃に嬉しそうに退院していった。「もう戻って来ちゃダメですよ」と声をかけて送り出したけれど、彼は病院ではなくこの世を去ってしまった。
また別の日、病室の扉の前で涙を流す人。「ありがとうございました」の言葉。その人を取り囲む複数の医療スタッフの表情を伺って状況を察したこともあった。
死はリアルなんだ。存在と自我の最終局面。生が消えて、自分が無に帰する瞬間。必ずいつか訪れる。 目の前で実例を見せつけられた。その度に心を揺さぶられ、今までの人生で最も自分の死について考えた。「僕はいつか死ぬ」と何度も口にして、頭の中で咀嚼した。
でも。
いつまで経っても、なんのリアリティも感じられなかった。生は目の前に当たり前にある現象で、死はあの日に読んだ小説の中の絵空事であり続けた。生きているのが当然だというように生きることしかできなかった。
死後の世界に期待を寄せていたわけではない。
鉄は錆び、プラスチックは紫外線劣化し、有機物は腐敗する。劣化しないデジタルデータでさえ、ハードウェアが壊れればあっけなく消える。 形あるものもないものも、こんなにも脆く儚く壊れてしまうのに、「意識」だけが身体を失っても特別に残り続けるなんて、都合が良すぎる。 死後の世界なんてないし要らないと、ずっと思ってきたし、今も同じだ。
現実の問題として、自分の生命が今あるのは偶然であり、いつ終わってもおかしくないと納得したかった。そうすれば今を大切に生きられると思ったから。でもそれは叶わなかった。
自分の想像力なんて思っていたよりずっとちっぽけで、目の前にあることだけしかちゃんと見えないのだと知った。悔しかった。
病気になる前のいつだったか、こんな一文に出会った。ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の言葉だった。
「たとえ運命の力に逆らえずに、病気が、さらに進行しても、それは、身体だけであって、いくら恐ろしいALSと言う病気でも、僕が幸せと感じる「こころ」までは絶対に奪えない、ザマアミロ」
僕の祖父も同じALSでこの世を去った。まだ幼かったので鮮明な記憶ではないけれど、日を追うごとに動けなくなり、意思疎通が難しくなっていく祖父の姿を覚えている。彼が幸せかどうかなんてわからなかった。ALSという重く苦しい病気の中で「幸せと感じる『こころ』までは絶対に奪えない」となぜ言えるのかと、最初読んだ時は思った。
けれど、「死をどうしても意識できない」という自分の体験を通して、この一文を見直すと、見えてくるものがあった。
「僕らは限りなく素直に生を享受できる」
毎秒毎秒生きていることを確認しなくても、自然に生きることができる力が、僕らにはある。病気がいくら身体を蝕もうとも、命ある限り、生は当たり前の存在であり続ける。白血病にもALSにも、生きているという主観まで覆す力はない。
だから、「生」の上にある感情だって揺るがすことはできない。
病気がどんなに身体をボロボロにして自由を奪って、僕の好きなことをできなくしても、僕が「好き」って思う気持ちに疑念など抱かない。たくさんの人に支え、助けてもらった「ありがとう」の気持ちを疑うことなど、絶対にない。
なるほど、ザマアミロ。
たとえば、次の瞬間に死んだとしても。それでも、「これまでの僕」を侵すことは白血病にはできない。痛い検査を受けても、頭痛が酷くても、吐き気に苦しめられても、前向きに生きてやった。お前が殺した患者仲間だってみんな同じだった。ザマアミロ。
生の価値を噛み締めながら生きることはできなかったけれど、それは裏を返せば「生きている実感」は病気ごときが揺るがせるものではないということでもあった。悔しいどころか、むしろ誇らしく思えるようになった。
ココロは強い。ザマアミロ。