表現者になれ!

書かなければ残らない

非対称性

昨日の昼下がり、病棟のマッサージチェアで寛ぎながらTwitterのタイムラインが更新されていくのを携帯でぼんやり眺めていると、ある女性の久しぶりのツイートが流れてきた。

メモアプリで書いた文章のスクリーンショットだけが添付された無機質なツイート。こういう類いのツイートを何度か目にしたことがあったから、嫌な予感がした。

やはりそうだった。旦那さんによる、訃報だった。

「なんで」という言葉が口を突いて出た。病室に逃げるように戻り、何回も読み返した。彼女の作品を見て、それが更新されることは二度とないとどうしても信じられなくて、目眩がした。


青田チヨ子さんは、白血病の闘病を描く漫画家で、院内で手描きの漫画を描いて、noteというサイトに投稿していた。病気がわかってから、移植まで、ずっと。

https://note.mu/chiyochan

不満、不安、辛さ、恐怖、怒り、悲しみ…。自分の弱い部分を素直に表現した漫画を、当初、僕はあまり受け容れられなかった。弱い自分は捨てて、強く生きる自分を表現するほうがいいじゃないか。そう思っていた。

しかし、結局のところ僕も同じような弱さを持っているということに、あるとき気付いた。僕は弱さを隠して、見えないようにして生きているだけだった。周りに対しても、自分に対しても。

逆説的だけれど、自分の弱さを認められる人は、強いと思う。 自分のぜんぶと向き合っていくのは辛いし、怖い。しかし、そういう厳しい闘いを、彼女は選んだ。見栄を張らずに生きた。その姿は、間違いない強さの現れだと、今は解釈する。

彼女の生き方は、漫画という形で、これからも残っていく。伝わっていく。素敵なことだ。命潰えようとも、想いは消えない。表現することの価値を、改めて教わる。重すぎる喪失とともに。


自分の周りだけは都合よく考えてしまうものだ。今まで知り合ったぜんぶの人が、無事に乗り越えると、信じ切って。

自分が死ぬことが僕には想像できない。でも、ついさっきまでいた仲間がいなくなることは、間違いのない体験として起きてしまった。想像する余裕すら与えず、いや想像などしたくないけれど、唐突にリアルを突きつけてくるのはあまりにも非情で、恐ろしくて、この時ばかりは、がんをただひたすらに憎む。

移植に直面する患者仲間が、僕には何人もいる。彼らが立つステージの厳しさを目の当たりにした。 考えたくない現実と、考えなくてはいけない現実の狭間に揺れる。

ただ、一つ言えるのは、伝えたいことは今伝えるべきだということだ。

彼女とは、来月になったら連絡を取ってみようと思っていた。 「漫画読んでいます」の一言だけでも、届ければよかった。クリエイターの端くれとして、その言葉がどれだけ嬉しいか、理解していたではないか。何をしているんだ。消費するだけ消費して、還元しなかったことを、悔いるほかない。彼女の想いは今も僕に届くのに、逆は永遠に叶わない。その非対称性に絶望する。

今年の夏も、大事な課題を後回しにしたまま、8月を過ごしてしまった。いつもの夏休みと同じように。どう言い訳をしても、決して取り戻せない時間に、何度反省すれば気が済むのだろう。


「自分が力強く生きたことを覚えておいてほしい」。旦那さんからのツイートにあった、チヨ子さんの言葉だ。

あなたが伝えたかったこと、ちゃんと伝わっています。僕からは何も伝えられなくてごめんなさい。今更遅いけれど、ありがとう。