表現者になれ!

書かなければ残らない

アスタリスク 〜生き抜くということ〜

生きて、生きて、生き抜いた、小さくも力強い命の炎を間近で見てきた。
熱いくらいに温かかったその温度を、しっかりと覚えている。

数々の望みが叶わなくとも、多くのものを失っても、生きる希望そのものは決して無駄にならないと、彼女は教えてくれた。例えこの先、どのような未来になろうとも、最期まで懸命に命を掴もうとし続けたその姿を思い出せば、力強く生きていける気がする。

叶えられない約束ばかりしてしまった。だからせめて、「生きてほしい」と言ってくれたその気持ちには応えたいと、強く思う。生きるための希望の光を天から貰いながら。

***

生きてくれて、本当にありがとう。 あなたのように、全力で、限りあるこの命を燃やします。

いつか、天の上で、また会えると信じて。


アスタリスク

--

note.com

世界が理に尽くさぬのなら

令和2年が始まって早々目にしたとあるツイートに、この世界は理不尽だと、また強く思わされた。

2020年、あけましておめでとうございます。

昨年は本当に多くの方に応援いただいた一年でした。ありがとうございました。

新年早々こんなことを言うのもアレですが、白血病の再発による三度目の移植が決まりました。次失敗すれば死にます。

勝負の年、何とか生き抜く。

よろしくお願いします。

12:00 AM - Jan 1, 2020 written by 山口雄也

なんらかの知的生命体が個々の運命を決定づけているというのなら、僕は全力でそいつをぶん殴りたい。

何度も底に落とされては這い上がって、生を得ようとする人に味わせたいのが、再々移植?ふざけるな。


1年前、「神は乗り越えられる試練しか与えない」と日記に書いた。でも、そんな風に神を肯定することができなくなる出来事が、そのあと何度かあった。

そのうちの一つ。SNSを通じて知り合った移植患者の女の子がいて、移植前から連絡を取り合っていた。移植は順調に進み、夏の終わりに退院を祝った。退院後の生活は、体調が安定しなかったり、時には気持ちが落ち込んだり、大変そうではあったけれど、外の世界で過ごす楽しさはひしひしと伝わってきた。神社にお参りに行ったり、(許される範囲で)動物と戯れたり…。僕が遠ざかり、忘れかけていた広い世界を追体験させてくれるようで、見ていて幸せだった。楽観的な僕は(移植に対する理解不足も多分にあったが)、彼女がこれから良くなっていくのだと、信じて疑わなかった。

彼女の退院を喜んでからわずか2ヶ月、メッセージが届いた。「再発しました。明後日入院します」と書かれていた。

重い現実が唐突にやってくると、理解するのに時間がかかる。頭より先に動いたのは身体のほうで、何の種類の感情かもわからないまま、ただ枕を殴って涙を流した。返信を書いては消して、結局、どんな言葉にもならなかった。その日の晩は全く眠れなかった。


1年前の今頃、僕が移植を受けるか否かは、決まっていなかった。

血液内科に入院して2日で白血病細胞が15%増え、進行の速さゆえに治療を前倒しで受けた僕は、「標準」「高い」「非常に高い」の3つに分かれたリスク群の中で「標準」には入れないことだけ、早い段階で確定していた。となれば、残された分岐は2つ。「高い」であれば、抗がん剤治療。「非常に高い」であれば、移植。分岐器の切り替えレバーを握るのは検査結果だけで、僕は頭痛に苦しみながらただ待つことしかできなかった。

何事も、データでわからない部分については、かなり楽観的に捉えるクセがあった。肺の間に腫瘍があると言われたときも、それが癌(悪性リンパ腫)で血液をも冒している(白血病)と知ったときも、急性リンパ性白血病の中では予後の悪いT細胞性だと知ったときも、いつも「どうせ僕は治る」と信じて疑わなかった。強いように見えるかもしれないけれど、単に、正常性バイアスが強くて、悪い方向に想像力が働かないだけなのだと思う。

蓋を開けてみれば、実際に、僕は非常に深いレベルで寛解(がん細胞が検出されない状態)に至ることができていて、移植をせずとも済むことになった。

その後も、神(?)の采配がよく、僕は生死を争う舞台を降りられた。けれど、僕はコイツに感謝するつもりはない。一度つけた傷の重みを知らないから。

右目の端を押せば、治療により欠けた視野が、縁の滲んだ闇となって視界に現れる。これは僕が見た死の世界のイメージそのものだ。二度と見たくもない世界の残滓を植えつけて、「これで忘れないだろう?」と得意げになっているのだろうか。

何より、最大の傷は、仲間と描いていた未来の喪失だ。自己完結的に僕が幸せになれると思っているのなら、神(?)の人間への無理解も甚だしい。

「退院したらバンドやろう」と約束していた音楽好きの仲間を先々月に失って、彼と作るはずだった音楽は二度とこの世に生み出せなくなった。「ひとモノガタリ」に出演した3人で語り合う日は、1人が旅立ったことによって、どう足掻こうとも訪れなくなってしまった。

なぜ助からない人がいる?その人が、どんな罪科を背負ったというのか。命を奪うに値する罪なんて、どう考えても背負っていない人たちだった。

早い死をその人のアイデンティティとは捉えないよう気をつけている。どんな人に対しても、人生そのものを「かわいそう」と形容したりは絶対にしない。みんな、哀れまれるよりも重要な価値を生み出しているはずで、第一に捉えるべきはそちらのほうだ。

それでも、大切な仲間がいなくなったという喪失感を、僕は今も受け入れられない。


生も死も受け入れようとする山口君は、呆れるくらいに強い。

「ヨシナシゴトの捌け口」のいくつかの記事を読み返した。僕が表現を始めた原点であり、憧れでもある、彼の豊かさと強さの結晶。

彼はただの強がりだと謙遜するかもしれないけれど、死と向き合いながら生を掴もうとするほどの力は、外面だけで得られるとは思わない。本当に強いのだと思う。もちろん先天的に。そして、運命のせいか、おかげか、後天的にも。

僕の知る範囲にない、強大な痛みや苦しみを経てなお、諦めを知らなかった。病を理由として何かを捨てることを嫌った。強くあろうとする姿勢は、SNSやマスメディアを通じて多くの闘病者を勇気づけ、がんに対する一般的なイメージにも変化をもたらした。

「かわいそう」と言われるより前に「すごいね」と言わせてしまうような実績を、彼は自身で築き上げてきていた。まぶしくて、かつ、悔しかった。彼に追いつくことが、しばらくの間、僕の最大の目標で、実際に僕は計り知れないプラスの影響を受けた。

2018年の僕は、翌年の自分が作詞作曲し、テレビ出演し、これだけ幅広い繋がりを得るなんて、考えもしていなかった。命に関する考察も、彼なしでは得られなかった部分がたくさんある。

強さもずっと追い求めてきた。しかし現実に、僕は、死の世界をただ一度見つめただけで折れるほど、弱かった。あるいは、弱さを認めても許されたと言える。

彼ほどの強さは誰にだって持てるものではない。類稀なる強さの価値を認めれば認めるほど、それが発揮されるのが、生死を彷徨う舞台であり続けてほしくなくなる。 − こんなのは、命と向き合い続けなくて済む者のエゴなのだろう。きっと。

「未来は不確定だから、あまりに希望的と思われる予測も、本当になる蓋然性はある」。これは科学的にも正しいと考えられている。ミクロな粒子は、それが本来超えられるはずのないエネルギーの壁(ポテンシャル障壁)を通り抜けることがある。人間も原子というミクロな粒子の集合体だから、無限回の試行を行えば理論上、人間は壁をすり抜けられる。

しかし、人生の時間は有限だ。「無限回の試行」という仮定そのものが成立しない。したがって、背理法によって、「人間は壁をすり抜けることは(事実上)不可能」という結論が導き出される。

理想と現実は違う。では、こんな理不尽な現実とは今すぐ決別したいのかと聞かれたら、迷ってしまう。なんだかんだ言って、嫌いにもなりきれない。宇宙という壮大なシステムに、欠陥品の烙印を押せるほど賢くはないから。

いいとこ取りで、甘い。そう、甘い。

でも、僕はいつも甘い想像を抱いてしまう。また、鴨川デルタで笑顔で話せる日が来るという気がしてならない。「ありがとう」も「ごめんなさい」もあるけれど、会ったところでちゃんと全部を伝えられないのだろう。でも、直接会うことは、ほかの手段と比べてずっと多くの情報をやり取りできる気がする。何より、ただ、元気な顔が見たい。

明日の保証もないと感じた、あの頃の思いを、僕はもう追想できなくなっている。それほど、一般とはかけ離れた空間で生きてきたのだ。でも、出会った人たちのことは忘れていない。むしろ一層大切に思うようになった。その人が希望を抱いて生きているということを、心から嬉しいと思えるようになった。

だから、移植が「治す」ことを目的にする限り、僕は勝手に、都合の良い未来だけを信じて、祈り続ける。世界の理不尽さが、奇跡を起こすこともあると、信じていたい。

「ひとモノガタリ」に出演して

 およそ1ヶ月前、9月16日の夕方、僕は病院のテレビの前で舞い上がっていた。

 端的に言えば、自分がテレビに映るからだった。

 

3ヶ月前、NHKのドキュメンタリー番組シリーズにおいて、白血病を題材にした作品を作るという話をもらい、主人公なる患者の知り合いとして、NHKから2度にわたって取材を受けた。

 

タイトルは「“がんになって良かった”と言いたい~京大生のSNS闘病記~」

 

www4.nhk.or.jp

 

「がんになって良かった」 

自分がこの言葉に触れたのは、今年の1月、番組の主役である京大生の彼が、Yahoo!ニュースに載っているのを目にしたときだった。

「がんになってよかった」ブログつづる京大生 共感呼ぶ闘病記|社会|地域のニュース|京都新聞

がんという病苦を肯定するインパクトある言葉について、はじめから特に否定的に捉えることはなかった。それは彼の過ごしてきた日々を俯瞰的に理解する機会があったからだと思う。その機会とは、共に入院した日々(といっても会話したのは僅かだが)もそうだが、彼が闘病記と別に書いている、「ヨシナシゴトの捌け口」というエッセイブログが一番大きかった。 

番組ではこちらについては触れられていないが、彼に興味を持ったのなら、ぜひ読んでほしい。

特に以下の2記事をお勧めする。

yoshinashigoto.hatenablog.jp

 

激痛、高熱、倦怠感、食欲不振、孤独感…。様々な苦痛に毎日ただ耐える日々。彼が心身ともに強い痛みを経験し、様々なものを失ってきたきたことがわかる。妊孕能、すなわち子供を作る力も彼は今持っていない。

 明るくユーモアあふれる闘病記では見えない、彼の葛藤や苦難、その中で見つけた光、してきた決断がこのブログには書かれている。

 

当たり前だが、がんになって全てが良かったわけではないのだ。多くの犠牲の上に今がある。

それでも、表現しながら前向きに生きることを選択する姿勢が、がんになる前と比べて、彼とその周りを豊かにしていた。

度重なるがんと辛い移植を経た者の発する「がんになって良かった」という言葉の重みを考えて、 この人のように、逆境の中でもひたすらに強く生きたいと思ったことを覚えている。

 


 

さて、放映の感想として触れたメッセージの多くは、中立的もしくは肯定的なものだった。

 

「病に負けたくないから出てきた言葉」「がんになって、悪いことばかりではない」「共感する部分があった」「『良かった』と言い切れるかはわからないけど『ならなければ良かった』とも思わない」

 

この言葉を、一人のがん患者が感じた「気持ち」として素直に捉えてくださる方がたくさんいることに、僕はほっとした。

 

「がんになって良かった」と、「がんになって良かったね」。

1文字付け加えるだけで、メッセージを向ける先がまるっきり変わってしまうのが、日本語の恐ろしいところだ。

前者は内向的で、後者は外向的である。

「がんになって良かった」という言葉は、常に内向的でなければならない。100人いれば100通りのがんとの向き合い方があって、○も×もないのだ。これは、「感想」なのだ。ほかの人の生き様に当てはめて判断できるようなものではない。

 


 

出演した自分に対して、複数の知り合いが、「立派だったよ」という言葉をくれた。素直に嬉しかった。

「(番組は)生きる意味を考えたり、病気の事を皆に知ってもらう貴重な機会だった」と言ってくれた人もいた。

 

一方で、最も厳しく、考えさせられた意見も、近しい人から寄せられた。

 

「ガンになってよかった」と言った山口君は今を生きていて、「ガンになってよかったなんていえない」と言った青田さんはもういない。

その対比が、ガンになっても、そうなって良かったと思えるようにポジティブに前向きに生きろという編集者のメッセージにボクは聞こえてならなかった。

でも、そんな簡単な話じゃないじゃん。

ひとの性分ってそう簡単に変えられるわけじゃない。

編集者の真意は不明だけど、そこだけはどうしても、辛くてやるせない気持ちにならざるを得ませんでした。

(友達がくれた感想文より抜粋)

 

生と死の対比と、「がんになって良かった」と「そうは思えない」の対比。それが生み出すメッセージ性。

ディレクターをはじめとする番組スタッフと直接関わってきた僕には、欠けていた視点だった。

 

別にドキュメンタリー番組の構成の論評をしたいわけではないので、ここでは番組の「映し方」については深く触れないが、上記の友人の感想と彼の持つ死生観に僕は、自らの人生観について、もう一度考えさせられることになった。これについてはいずれ語る機会があるかもしれないが、まだ一通りの結論は出ていない。

 

ただ1点だけはっきり否定しておきたいことがある。それは、「青田さんは、取材対象者の中から、亡くなったことを理由として、(対比的構成のために)番組に取り上げられたのではないか?」という疑念に関してだ。

 

そもそも、取材を受けていたのは番組に出てきた3人だけだ。

そして、青田さんがなくなることは誰にとっても予想外だった。番組制作も終盤に差し掛かった時、突如として訃報が届いたのだ。亡くなったから取り上げたということは断じてない。

 

予期せぬ死に、スタッフも僕もみんな悩んだ。どう取り上げるのか、そもそも取り上げないほうが良いのか…?最終的にとった「取り上げる」という選択そのものに、僕は間違いはなかったと思っている。

 


 

触れた感想の中には、青田さんが亡くなったことへの悲しみを中心に書かれたものがたくさんあった。

 

死は言うまでもなく悲しく、辛い別れである。もちろんそれはわかっている。だけど、彼女が伝えたかったのは、「白血病は死に至る辛い病気だよ」というメッセージだけではないはずだ。

 

以下は、旦那さんによるツイートで知った、青田さん(チヨ子さん)自身の言葉である。

 

もし自分が死んだとしても、今まで描いた漫画を通して、少しでも多くの人に白血病という病のことを知ってほしい、自分が力強く生きたことを覚えておいてほしい

 

彼女が漫画を通して伝えたかったのは、「白血病になって、辛いことや怖いこと、失ったものは数え切れないくらいある。でも、こんなに明るい仲間に囲まれて、なんとか光を目指して生きられたのも本当だよ」というメッセージだと、僕は受け取った。

 

死という強いイベントがそれまでの生を覆い隠してしまうのはとても悔しい。彼女は強く生きたし、彼女の漫画はこれからも生き続けるのだから。

 


 

番組を通して得た繋がりについて触れたい。

 

やはり公共放送の力は大きく、中学・高校時代のクラスメイト複数人から連絡をもらって、電話したり、実際に会ったりした。新しい同窓会の約束もできた。

 

曲を通してネット上での繋がりも増えるかと意気込んでいたが、番組の放映直前、「曲を紹介できる尺が確保できそうにない」という連絡を受けた。しょうがないことだとは思いつつも、結構落ち込んだ。

 

それと時をほぼ同じくして、偶然、星野さんという作曲家とTwitterを通じて出会った。

きっかけは誰かがリツイートしたこのツイートだった。

 

 

何の気もなしに再生ボタンをタップした。

 

何と言えば適切なのかわからないが、とても暖かくて、勝手に涙が流れた。「胸に沁みる曲で、一聴して大好きになりました」とメッセージを送った。

 

件のドキュメンタリー番組が放映されて程なく、星野さんがブログで僕のことを取り上げてくれた。

 

ameblo.jp

 

 C7さんも、作詞作曲をされるそうで、早速拝聴させていただきました。病院の中で作詞作曲を始められたそうです。とても優しい音色の素敵な曲です。

 歌詞にも思いが詰まっています。「生きた証を残すんだ」に、「そうだ!私も生きた証を残すんだ!」と心の中で大いに賛同しました。ぜひたくさんの方に聴いていただきたいです。そして、これからも素敵な音楽を楽しみにさせてください。

 

こんなにちゃんと自分の曲に向き合ってくれた人は初めてで、飛び上がるほどに嬉しかった。

 

そのあと、電話で「作曲あるある」を語り合ったりした。初めての電話で緊張したけれど、気づけば1時間も話していた。イメージ通りの、優しい声の方だった。

 

また、10月14日に、僕が最初に作った曲「今を生きる僕たちは」の野外演奏動画をダイレクトメッセージ*1でプレゼントしてくれた。何度も聴いて覚えてくれたらしい。曲を気に入ってくれたことはもちろん、部屋の中で閉じていた僕の曲を、外の世界に羽ばたかせてくれたことが、たまらなく嬉しかった。

 

星野さんは1日に10秒しか起き上がることができない。そして日夜、頭痛や吐気と闘っている。それがどんな世界なのか、共感することはできないけれど、そのような中でも曲を作り、たくさんの人を励ましている星野さんに、僕はいつも勇気をもらっている。

 


 

「がんになって良かった」か?

 

正直に言えば、まだわからない。

 

その最大の理由は、退院していわゆる「日常」が戻ってきた時に感じる喪失感や焦燥感が、想像できないからだ。それ以前に、僕の場合は退院後も1年以上にわたって抗がん剤(基本的には内服薬)が続くわけで、日常生活が戻るのかという不安もある。「退院してからのが心配ごと多いかも」と言っていた、とある先輩患者の言葉が忘れられない。

 

ただ、「がんになって良かった」という言葉に出会えたということは、現時点で既に良かったと断言できる。その言葉が患者をはじめとして多くの人に届き、生き方について考えさせたことも、僕は良かったと思っている。

 

出演して良かった。また一つ、生きる意味の答えに近づいたように思う。

*1:Twitter上のメールのようなもの

非対称性

昨日の昼下がり、病棟のマッサージチェアで寛ぎながらTwitterのタイムラインが更新されていくのを携帯でぼんやり眺めていると、ある女性の久しぶりのツイートが流れてきた。

メモアプリで書いた文章のスクリーンショットだけが添付された無機質なツイート。こういう類いのツイートを何度か目にしたことがあったから、嫌な予感がした。

やはりそうだった。旦那さんによる、訃報だった。

「なんで」という言葉が口を突いて出た。病室に逃げるように戻り、何回も読み返した。彼女の作品を見て、それが更新されることは二度とないとどうしても信じられなくて、目眩がした。


青田チヨ子さんは、白血病の闘病を描く漫画家で、院内で手描きの漫画を描いて、noteというサイトに投稿していた。病気がわかってから、移植まで、ずっと。

https://note.mu/chiyochan

不満、不安、辛さ、恐怖、怒り、悲しみ…。自分の弱い部分を素直に表現した漫画を、当初、僕はあまり受け容れられなかった。弱い自分は捨てて、強く生きる自分を表現するほうがいいじゃないか。そう思っていた。

しかし、結局のところ僕も同じような弱さを持っているということに、あるとき気付いた。僕は弱さを隠して、見えないようにして生きているだけだった。周りに対しても、自分に対しても。

逆説的だけれど、自分の弱さを認められる人は、強いと思う。 自分のぜんぶと向き合っていくのは辛いし、怖い。しかし、そういう厳しい闘いを、彼女は選んだ。見栄を張らずに生きた。その姿は、間違いない強さの現れだと、今は解釈する。

彼女の生き方は、漫画という形で、これからも残っていく。伝わっていく。素敵なことだ。命潰えようとも、想いは消えない。表現することの価値を、改めて教わる。重すぎる喪失とともに。


自分の周りだけは都合よく考えてしまうものだ。今まで知り合ったぜんぶの人が、無事に乗り越えると、信じ切って。

自分が死ぬことが僕には想像できない。でも、ついさっきまでいた仲間がいなくなることは、間違いのない体験として起きてしまった。想像する余裕すら与えず、いや想像などしたくないけれど、唐突にリアルを突きつけてくるのはあまりにも非情で、恐ろしくて、この時ばかりは、がんをただひたすらに憎む。

移植に直面する患者仲間が、僕には何人もいる。彼らが立つステージの厳しさを目の当たりにした。 考えたくない現実と、考えなくてはいけない現実の狭間に揺れる。

ただ、一つ言えるのは、伝えたいことは今伝えるべきだということだ。

彼女とは、来月になったら連絡を取ってみようと思っていた。 「漫画読んでいます」の一言だけでも、届ければよかった。クリエイターの端くれとして、その言葉がどれだけ嬉しいか、理解していたではないか。何をしているんだ。消費するだけ消費して、還元しなかったことを、悔いるほかない。彼女の想いは今も僕に届くのに、逆は永遠に叶わない。その非対称性に絶望する。

今年の夏も、大事な課題を後回しにしたまま、8月を過ごしてしまった。いつもの夏休みと同じように。どう言い訳をしても、決して取り戻せない時間に、何度反省すれば気が済むのだろう。


「自分が力強く生きたことを覚えておいてほしい」。旦那さんからのツイートにあった、チヨ子さんの言葉だ。

あなたが伝えたかったこと、ちゃんと伝わっています。僕からは何も伝えられなくてごめんなさい。今更遅いけれど、ありがとう。

レンズ

苦楽相伴うこの世界を、なるべく綺麗な色彩で見てこられたと僕は感じている。


もともと、僕にとって世界はだいたい明るい場所だった。苦難から実になる要素を抽出する力は、物心ついたときから持っていた。

 

先天的なものがすべてだとは思わない。家族や親友をはじめ周囲の人達が優しく接してくれたからこそ守ることができた前向きさだと思っている。

 

白血病になってその恩恵を最も実感した。苦しみに流した涙より、支える人の多さに流した嬉し涙のほうがはるかに多かったから。

 

 

 

しかし一つ、向き合いたくない問いがあった。

 

それは「自分の人生を、自分で認めていますか?」という問いだった。

 

クリーン病棟の証である二重扉の内側に閉ざされ、ベッドの上で透明化した時の流れに身を任せるとたびたび、この問いが頭を支配した。

 

すなわち、自分の存在や自分の抱く感情に、己の生を肯定するほどの価値があると、僕にはどうしても思えないのだった。

それは誰がどんなに僕を肯定してくれようとも変わらなかった。こんなに楽しい人生で、なぜ「よかった」と認められないのだろう。申し訳なくて、困惑した。

 

その戸惑いを抱えながら闘病を続けるうちに、がんに侵され、辛い治療に直面しながらも自己表現を止めない患者たちの姿が見えてくるようになった。


文、漫画、歌…。形はそれぞれだったが、彼らの作品からは、自分だけのものを生み出す喜びが、他の何にも代えがたい「自分が自分として生きた実感」を与えてくれるのだろうということが、ひしひしと伝わってきた。何よりも、それが闘病中に生み出された作品だということが刺激だった。

 

持ち前の明るさへの感謝とともに、彼らがくれた大切な気づきを残し、還元したいという思いで、この曲を作った。

レンズ

作詞 / 作曲 / 編曲:C7

soundcloud.com

 

瞳に映るこの世界の

美しさに何度声を奪われた?

小さな幸せも大きく見せる

このレンズは宝物

 

はじまりの日の まぶしい光から

瞼(まぶた)にしっかり焼き付けてきた

 

明るいレンズ くれてありがとう

集めた輝きをいま放って

まばゆい光で君を照らすよ

次の光につながるように

 

 

瞳に映るこの世界の

切なさに何度声を震わせた?

大きな悲しみも小さく見せる

このレンズは宝物

 

おしまいの日の かすかな光まで

瞼(まぶた)にしっかり焼き付けていく

 

歪まぬレンズ くれてありがとう

集めた輝きをいま放って

まっすぐな光で君を照らすよ

次の光につながるように

 

 

闇の中こそ 星は輝き

見えた いくつもの強い灯(あかり)

だから僕らは 今日を捨てずに

明日を目指す

 

 

透き通るレンズ くれてありがとう

集めた輝きをいま放って

僕の持つ光で君を照らすよ

次の光につながるように

 

僕だけの光で君を照らすよ

いつまでも いつまでも いつまでも…

  


 

(2019年9月8日 追記) 

noteにもアップロードしました。

note.mu

かわいそうに見えますか?


これは僕の患者仲間が前から主張していることだけれど、今改めて自分の心でそう思ったので記しておきたい。

 

「若いのに、かわいそう」

 

僕らAYA世代のがん患者の中で、この言葉を言われたことのない人の方が少ないのではないかと思う。

 

「若い」と「かわいそう」の間に何の接続関係があるのだろうか。

少ししか生きていないから「かわいそう」?
人生経験が乏しいから「かわいそう」?
未来あるはずだったのに「かわいそう」?

 

若くしてがんになることを特別に見る気持ちはわかる。
確かに、これまでの人生が短い分、人生に占めるがんというイベントの重みは大きい。しかし、そのベクトルの向きを、AYA世代でがんを経験してこなかったオトナたちが、どうして簡単に判断できる?マイナスの方向に向いていると、誰が言った?

 


 

入院して強制的に与えられた時間は、とても長く、濃かった。

命や生きる意味について、深く、幾度も考えた。時には文章にまとめ、こうしてブログに綴った。作曲を勉強して、歌も作った。作品を通して、自分が感じてきたことが誰かに伝わり、その人をちょっとだけ変える ー そんな体験で、生きることへの価値を感じた。

面会は、父や母と水入らずで話せるいい機会だ。人生観や家族観の話もした。こんな機会がなければできなかった話だと思う。深い愛を感じた。この家に生まれてよかったと思った。

病棟で、世代もばらばらな患者仲間で集って、時には何時間も語った。十人十色の人生を教えてもらった。この先、たくさんの選択肢があることを知った。

そして、数えきれないほどの医療者が僕のために汗水流してくれたことが、この先の生き方を変えるきっかけになろうとしている。人を救うことの尊さを知って、大学で研究したいことの方針が定まった。ずっと抱いていた「専攻のITで何をしたいか」という疑問に、医療への貢献という答えを出すことができた。「医療とITを組み合わせた研究に携わりたい」と大学の先生に半ば無理を言ってお願いして、今、調整をしてもらっている。

 

これまでの闘病の9ヶ月が、二言目に「かわいそう」と言われるような、薄っぺらい日々だったとは思わない。

がんは僕を変えた。間違いなく、プラスの方向に。がんがない自分の人生なんて、もはや考えられないと思うほどに。

 

「若い時に試練を経験して強くなる」なんてエピソード、ありふれているだろう。その試練が病気となると、途端に不幸中心の見方になるのはなぜなのか。死が絡むから?

誰しも死に向かって生きている。僕らはちょっとだけ死が身近にある、というだけ。病を知る人も知らぬ人も、幸せを求めて目の前を生きることに、違いはないはずだ。

 

今を精一杯生きていると思ってくれるなら、その様子に目を向けて、褒めてほしい。哀れむよりも。

 

僕は不幸を売って生きたくない。なってしまったものにクヨクヨするような後ろ暗さははじめのはじめで捨てた。

これからも幸せを掴み続ける。かわいそうなんて、言わせるものか。

Drive

6月2日、何がきっかけだったのかはわからない。何かの薬のせいなのか、病気に対する識閾下の不安や不満が爆発したのか。

その日、朝起きてから、何をしても楽しくなかった。

何をすることも無価値で馬鹿馬鹿しく思えた。
 

今まで、高熱やひどい痛みで、生きることが苦痛に感じたことは何度かあった。でも、熱が下がれば、痛みが引けばすぐに忘れて「生きていて楽しい」と思うことができた。単純だなあ、馬鹿だなあと思う一方で、幸せでもあった。

けれども、今回ばかりはどうにも話が違うようだった。

自覚する限り、副作用は概ね引いていた。熱が下がり血球も回復してきて、先生と「そろそろ一時退院できそうやね」なんて話をしていたくらいだった。

身体は辛くないのに、心だけが勝手にどんどん辛くなって、例えようのないひたすらの暗闇に自分を引きずり込んでいく。出口は見えなかった。

 

悲しさや辛さを認めるのは苦手だ。認めてしまったら立ち向かうしかなくなってしまうから、大したことないと言い聞かせて、それらが過ぎ去るのを待つほうが楽だった。事実、大したことはないのかもしれない。ともかく終わればそれでいい。

苦しみを乗り越えた先の人生に魅力を感じていた。生きていることに魅力を感じていたから、生きてきた。23年と4ヶ月の間、一度も揺らいだことはない思いだった。

 

しかし、6月2日の僕は、生きることへの執着心をすっかり失っていた。

苦しみを産む「生」よりも、プラスマイナスゼロの無の境地である「死」のほうが、遥かに魅力的に思えてきてならなかった。

自分で自分を奮い立たせることはもちろん、頑張っている人の姿とか、楽しんでいる人の笑顔に、元気をもらうこともできなかった。そういう「生きたい人たち」と僕の間には、厚いガラスの壁があった。姿は見えるけれど、声は届かない。

「生きたいと思えるなんて幸せですね。僕はもう…」

 

固く閉ざされた病室の窓と、その鍵をぼんやりと眺めた。

 


 

「今日、電話してもいいですか」

母宛のLINEに打ち込んで、送信せずに消去する。14時、15時、16時、17時。1時間おきに繰り返した。

把握できない今の自分が母に何を言い出すのかもわからなかったし、電話するということはこの辛さを認めるということでもあった。どちらも恐怖だった。どうしても送れなかった。

 

また窓を見た。

夕闇が迫っていた。空の青が降りてきて、街を青く染めていけば、まもなく本当の闇が訪れる。

そうなってしまっては、二度と戻ってこられない気がして、18時にやっと母にLINEを送って電話の約束をした。

母はすぐに応じてくれた。

 

「何をしても楽しくなくなった」

電話口でそう言葉にすると、勝手に涙が溢れて止まらなくなった。

 

電球の切れた暗い電話コーナーで、ひたすら泣いた。

母はただ黙って、僕が泣き止むのを待ってくれた。

 


 

「家に帰ったあと、泣きながら写真を探したよ」。昨年10月に僕が白血病だとわかったときの話を母はしてくれた。

その当時から今まで、母は一度も、一滴の涙も僕に見せたことはなかったから、少し驚いた。

 

写真。

確かに、入院の翌週に母は、小さい頃の僕と父や母の写真が入った、小さなアルバムを持ってきてくれた。

母はどんな想いであのアルバムを持ってきてくれたのだろう。アルバムのことを思い出す。

 

ベッドで眠る0歳の僕の写真があった。割と髪が薄い赤ちゃんだったので「はげちゃびん」と呼ばれていたらしい。髪が抜けた今の姿は、父や母にとって昔を思い出させるのだろうか。

公園の遊具で父と並んで遊んでいる写真もあった。小さな遊具に座って笑う父のほうが、僕よりも楽しそうだったな。

 

幸せな家族の姿がそこにあった。

間違いなく僕は愛されていた。生きることを望まれていた。もちろん、今も。

母が流した涙の意味を考えた。

 


 

電話を切った後、また病室で泣いた。

しかしもう悲しみの涙ではなかった。「こんなにも愛されて生きている」ということを幸せに思えたから流した、嬉し涙だった。

 

悲し涙と嬉し涙が視界の靄を取ってくれた。闇の出口が見えるようになった。いつも通りとはいかないまでも、決意だけはすることができた。

 

生きよう。僕が生きていることを幸せに思う人たちのために。

 

その夜、一気に歌詞を書き上げた。

"Drive"というタイトルもその日に決めた。

また旅をしよう。いきたいところに行こう。

 

Drive

作詞 / 作曲 / 編曲:C7

soundcloud.com

いっそ出かけないほうが 幸せだったと思えるほどに

ひどく泥濘んだ悪路でも 進まなきゃいけないのは

きっと 幸せな旅路を 願ってくれる人たちを

裏切りたくないから 悲しませたくないから

 

車を走らせよう 旅は続く

外を見よう せっかくの景色さ

フロントガラスが曇った時は 熱い涙を流し曇りを取ろう

熱い涙を流し曇りを取ろう

 

どうしても前が見えないときは

車を停めて 仲間たちの顔見て話そう

強く優しい追い風が吹いたら また…

 

車を走らせよう 旅は続く

外を見よう せっかくの景色さ

フロントガラスが曇った時は 熱い涙を流し曇りを取ろう

熱い涙を流し曇りを取ろう

 

La La La ...

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(2019年9月8日 追記)

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