表現者になれ!

書かなければ残らない

「がんになってよかった」と言える強さ

 京大生の白血病患者の彼とは昨年、入院中に知り合った。

彼とはあまり院内で話すことはなかった。というのも、とても忙しそうだったから。 それもそのはずで、彼には入院を理由に卒業を遅らせるつもりはないのだった。食堂(フリースペース)で教科書を読んだり、レポートを書いたりしているのをよく目にした。

彼をよく知るきっかけは年始のYahoo!ニュースだった。アプリで「がん」の文字を見て反射的に記事を開くと、彼の闘病のことが綴られていた。

記事を通して、彼がブログを書いていたことを知った。

ブログを読んでまず、彼の多才さに驚いた。ブログに溢れる文章力。陸上をやっていたこと、ピアニストだということもブログで知った。そして、京大に受かる実力も持っている。イケメンでコミュ力もある。

  ブログは2つあって、片一方はフランクで、片一方は文学調。3日くらいかけて全部の記事を読んだ。

フランクな方のブログは、自分の病気について噛み砕いて説明した記事が多かった。医学生ではないのに、よく調べて書かれていて、自身のブログ - T-ALLを「知って直す」 - のタイトルを恥じた。

文学調の方のブログには、彼の内なる思いが記されていた。がん患者としては先輩だけれど、知り合いで、同世代で、同じ病気。近しい境遇の人が巡らせてきた考えの重さと深さに、強い刺激を受けた。

http://yoshinashigoto.hatenablog.jp/

彼のYahoo!ニュース記事のタイトルには、ブログから引用した、「がんになってよかった」という一言があった。その言葉は、多くの批判を浴びたという。

 コメント欄が荒れるのは無理もなかった。 [癌になって良いはずがないだろう][強がりだ][それは生きているから言えることだ][私の母は死にました][癌になって良かったですね]

ライス or ナン?

的外れな批判だ。

がんを喜ぶ人はいない。なりたいか?なりたいわけがない。

しかし、今や日本では、2人に1人が生涯で一度はがんを経験する。がんを抱えて生きたことが不幸なら、日本人の半分は不幸なのか?

「なる」という動詞は様々な文脈で使われる。「医者になる」というときの「なる」は自発的意思を含んでいる。対して、「がんになる」の「なる」は意思を含まない。がんになるのは、運命だ。

運命は不可逆的で、どう言っても、現実が変わることはない。朝起きたらがん治ってました、なんて奇跡は起きない。

がんを宣告された時点で、がん患者としての人生を歩むことを強いられる。今までの生き方を変えるしかなくなって、それぞれが道を模索する。その過程で、否応なしに変化を迫られる。

がんという試練をきっかけに、人生を良い方向に変えることができる人もいる。だから、「『僕は』がんになってよかった」。彼はそう言いたいだけだ。

僕はナンを食べてナンのレビューをしただけだ。何が悪い? カレーはライスで食べるものだ、手で食う奴は汚い、そう言いたいのだろうか? 「逸脱したもの」を排他する風潮、きっと彼らは自分の信じるレールが常に正しいと思い込んで言うのだろう。「留年は怠惰」「離職は甘え」「病気は悪」、じゃあお前は一体何者なんだ? 何に挑戦したんだ? ずっとライスばかり食いやがって。ナンの味知らねぇだろ。難の味。ナンセンス。

ライス or ナン?


ブログを読破したあと、彼に連絡をとって、3月5日に、検査のついでに会いにきてくれることになった。

食堂で、2時間くらい話した。「がん患者としてどう生きるべきか」という話が中心だった。

話の半ばで、僕は彼にこう言った。

「がん患者としての気持ちを共有できた」

安易だった。

二度のがんを経験し、白血病に関しては辛い移植を経験してなお、単位を取りきって大学に通う彼。

移植予定もなく、万全のサポートを受けて「卒業させてもらった」僕。

境遇を聞けば聞くほど、彼と僕は違った。何を共有できるというのだろう。彼に比べれば、何も辛い思いなどしてこなかったのではないか。十分の一の努力もしてこなかったではないか。

「共感」という言葉は怖い。感情という、一人ひとりが独立して持っているものを、他人に対して「推論」する。推論に明確な根拠を提示することはできない。「何となく同じだろう」というだけ。安易な「わかる」という言葉は人を傷つけ、逆に「わかってもらえない」と思わせる。

入院はじめの頃、「どうして、社会にとって貢献していない自分一人のために、ここまで治療してくれるのだろう」と何日も考えた。存在価値とは何だろうと自問自答した。結論として、僕が何らかの価値を生み出すことを期待して、前借りを作ってもらっているのだと、考えることにした。だから、生かしてもらえる意義は、これから作らなければいけないと思った。

しかし実のところ、僕は入院に甘えてきた。恒温の病室で、一日中なんのタスクも与えられない環境。常に自分の体調を気にかけてくれる医療スタッフ。いつしかそれが当たり前になって、何となく一日を過ごして、「入院生活は経つのが早いね」なんて口走っていた。

入院の一日一日を当たり前のように消費していたら、がんを単なる「不幸」にしてしまう。ただ、人生に非生産的なパートができただけになってしまう。

病気が辛くてどうしようもない人にとって、それはしょうがないことかもしれない。でも僕は違う。有意義に使える時間を使わないで、他の患者にどう顔向けできるのか。「君の人生の時間を分けてくれ」

誰にとっても、明日が来るという保証はないけれど、普段はそれを意識しない。多分、生き物はみんなそういう風にできている。そうじゃないと、死の恐怖に潰されてしまうから。

しかし、明日の保証がないのは事実なのだ。みんな、今という時間でのみ生きている。未来を先取りしたり、確約したりしておくことはできない。

あと何日、何週間、何年生きることができるのか、そんなこと誰も知らない。けれども、病人であろうがなかろうが、人はそもそも、「限られた時間の中」を生きているんです。

Summer! - 或る闘病記

がんになって、その前の日常は消え去った。大好きな旅も、登山もできなくなった。そういう楽しみが戻ってくる日々を待ちわびる気持ちは、いつも持っている。けれどもそれだけではダメなのだと、彼を見るたびに思う。今、僕は入院しているのだ。その時間も当然、大切な人生の一部だ。

言葉通りではないが、彼はこんなことを言っていた。

入院生活や、辛い体験そのものを覚えておく必要はないと思います。そうじゃなくて、その体験を通して、この先の人生のベクトルを良い方向に変えることが、がんを通して得るべきものだと思います。

「がんになってよかった」と言えるには、ある程度の恵まれた環境が前提だ。そして、それ以上の本人の努力が必要だ。立派な入院生活を送ったからこそ、言えるのだ。

僕も、彼のように、今を大切に生きたい。「がんになってよかった」と言える日を信じて。