表現者になれ!

書かなければ残らない

かわいそうに見えますか?


これは僕の患者仲間が前から主張していることだけれど、今改めて自分の心でそう思ったので記しておきたい。

 

「若いのに、かわいそう」

 

僕らAYA世代のがん患者の中で、この言葉を言われたことのない人の方が少ないのではないかと思う。

 

「若い」と「かわいそう」の間に何の接続関係があるのだろうか。

少ししか生きていないから「かわいそう」?
人生経験が乏しいから「かわいそう」?
未来あるはずだったのに「かわいそう」?

 

若くしてがんになることを特別に見る気持ちはわかる。
確かに、これまでの人生が短い分、人生に占めるがんというイベントの重みは大きい。しかし、そのベクトルの向きを、AYA世代でがんを経験してこなかったオトナたちが、どうして簡単に判断できる?マイナスの方向に向いていると、誰が言った?

 


 

入院して強制的に与えられた時間は、とても長く、濃かった。

命や生きる意味について、深く、幾度も考えた。時には文章にまとめ、こうしてブログに綴った。作曲を勉強して、歌も作った。作品を通して、自分が感じてきたことが誰かに伝わり、その人をちょっとだけ変える ー そんな体験で、生きることへの価値を感じた。

面会は、父や母と水入らずで話せるいい機会だ。人生観や家族観の話もした。こんな機会がなければできなかった話だと思う。深い愛を感じた。この家に生まれてよかったと思った。

病棟で、世代もばらばらな患者仲間で集って、時には何時間も語った。十人十色の人生を教えてもらった。この先、たくさんの選択肢があることを知った。

そして、数えきれないほどの医療者が僕のために汗水流してくれたことが、この先の生き方を変えるきっかけになろうとしている。人を救うことの尊さを知って、大学で研究したいことの方針が定まった。ずっと抱いていた「専攻のITで何をしたいか」という疑問に、医療への貢献という答えを出すことができた。「医療とITを組み合わせた研究に携わりたい」と大学の先生に半ば無理を言ってお願いして、今、調整をしてもらっている。

 

これまでの闘病の9ヶ月が、二言目に「かわいそう」と言われるような、薄っぺらい日々だったとは思わない。

がんは僕を変えた。間違いなく、プラスの方向に。がんがない自分の人生なんて、もはや考えられないと思うほどに。

 

「若い時に試練を経験して強くなる」なんてエピソード、ありふれているだろう。その試練が病気となると、途端に不幸中心の見方になるのはなぜなのか。死が絡むから?

誰しも死に向かって生きている。僕らはちょっとだけ死が身近にある、というだけ。病を知る人も知らぬ人も、幸せを求めて目の前を生きることに、違いはないはずだ。

 

今を精一杯生きていると思ってくれるなら、その様子に目を向けて、褒めてほしい。哀れむよりも。

 

僕は不幸を売って生きたくない。なってしまったものにクヨクヨするような後ろ暗さははじめのはじめで捨てた。

これからも幸せを掴み続ける。かわいそうなんて、言わせるものか。